哲学入門

自己という観念

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〈自己〉という観念は、何人にとっても自明のものであるが、しかし説明は難しい。全く不可解なものである。もしそれを説明しようとすると、他人と共通に理解されるところの概念を以って述語せねばならぬが、概念というものはすべて対象化されたものであり、主体としての自己からは、すでに乗離したものであるからである。

自己とは何か?この問題は、古来幾多の哲学体系・宗教思想において中心問題であった、と言えるであろう。近代西洋の哲学思想においては、むしろ〈自我〉の問題として設定され、その意義内容が追求された。「自己」というのと「自我」というのでは、すでにそこに問題の捉えかたの相違があるようにも感ぜられるが、何かしら共通なものを志向している点では相違がない。これを日常生活の具体的な場面に引きおろして考えると、「わたしは何ものであるか?」「わたしは誰だ?」という問題となって展開する。

インド思想史において、〈自己〉の問題は、アートマンに関する考究として発展した。インドでは自己を「アートマン」と呼んでいる。「アートマン」とは元来気息を意味する語であった。ギリシア語のAsのドイツ語のatmenと語源的にも関係があるが、サンスクリット語では再帰代名詞として用いられている。

内面的・本質的に解されて哲学的な意味では

内面的・本質的に解されて哲学的な意味では「本体・本性・本質・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。特にウパニシャッドにおいては、アートマンは万有の根本原理あるいは絶対者と同一視されるようになった。

「自分を・する」というような表現において「自分」を意味して用いられている。(英語のoneself、ドイツ語のschsebstフランス語のseの用法に対応する。)さらに生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」「肉体」、特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」「自己」の意味となる。

初期の仏教徒はアートマンという語を主として「自身」「自己」の意に用い、それが原義であると考えていた。「アートマン」という語をシナ語に訳すに当たって、シチの訳経僧はこれに「我」という字をあてた。

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