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哲学入門

自我を実体とみなす見解は論理的に一つの誤認を含んでいる

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自我を〈実体〉とみなす見解は論理的に一つの誤認を含んでいる。「実体」とか「性質」とかいうのはカテゴリーであって、現象世界についてのみ適用され得るものである。経験世界においてのみ適用され意義をもっところの「実体」というカテゴリーを、経験世界をこえた領域においても意義をもっと考えて、自我を実体としてとらえたところに、デカルトやインドの自然哲学者たちの誤認がある。

古代インド人一般は、自己を対象化することを好まず、主体的なものとして理解する傾向が強かった。自己を反省して自己省察を行なう場合にも、その自己を対象的なものの位置において客体的に把捉することを好まなかった。「自己を・と思う」「自己をと称す」というときに、その「自己」を西洋の諸言語では対格で表示するが、サンスクリット語の古い層の用例においては主格を用いている。

自我は疑えないものであるが、それが実体であるという結論は、そこから出て来ないのである。個別的な自我を実体と見なす思想に対立して、あらゆる自我を含むような大いなる実体を考える思想も現われた。

スピノーザによれば

スピノーザ(一六三二ー一六七七年)によれば、『実体とは、それ自身のうちに在り且つそれ自身によって考えられるもの、換言すればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する〈実体〉のこの定義は、ヴェーダーンタ哲学の〈ブラフマン〉についても、ほぼ適用して偏差が無い。それは比較思想研究の多くの学者の承認するところである。

インド人は、個人存在の主体としての自己と絶対者としての本来の自己との間に密接な連絡があると考えて、そのいずれをもアートマンと呼んだのであるが、ときには両者を区別して「個我」(ivatman)、「最高我」(paranatnan)と呼んだ。しかしそれにしても、やはり両者ともに「アートマン」(我)、という一つの類概念の中に包摂さるべきものであると考えていたことには変りない。

また両者のあいだに大きな相違も存在する。インドで最も有力であった思想潮流、すなわちウパニシャッドからヴェーダーンタ哲学、ヒンドゥー教にいたる系統においては、自己すなわちアートマンを根源的な自我すなわち絶対者と同一視し、それをただアートマンと呼ぶこともあるが、また限定を付して「最高我」(paranatnan)と称することもある。

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