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哲学入門

自我の自覚から導き出される結論

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迷いの無い最高我というものが実際に存在するであろうか?それも抽象的思惟によって構成されただけのものではなかろうか?自我の自覚から導き出される結論は、われわれが〈自我〉とか〈自己〉として自覚するものが否定できないとともに、何かしらそれを超えたものがあるにちがいないということである。その両者あるいは両領域がどのようにかかわり合っているか、という問題を、われわれはさらに追求しなければならない。

自分が欠点の多い者であるという自覚は、自分より欠点の少ない立派な人に対する長敬の念を起こさせる。しかし完全無欠な人である〈神〉というのは、抽象的思惟にもとづいて構成されたものではなかろうか?またシャンカラは個人的自己は最高我(parananan)と本質的には同じものであるが、ただ無明(avidya)、迷いがそこに加わって個人的自己を成立させているという。

この自我は〈実体〉と見なされることがある。霊魂を実体とみなす思想は非常に古く、すでアリストテレ刻などギリシア哲学以来たどれるものであるが、実体としての自我を想定したのは、インドではニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派であった。

ニャーヤ学派は

すべてを否定した結果として精神の実在を証明したという点で、ニヤーヤ学派もデカルトも共通である。しかし、両者の否定的方法には差異が存する。ニャーヤ学派は推論を用いてアートマンの存在を論証している。

この学派では、意識(buddhiまたはimana)はアートマンの特質であるのみならず、アートマンという精神的実体の存在を証明し得る証拠であると考えた。デカルトもまた「われが意識する(cogito)」という万人周知の事実から出発したが、その自覚は意識それ自体の存在を証明するのみならず、意識を属性としている精神の存在を証明する証拠でもあったのである。

ニャーヤ学派の論法は次のごとくである。「Xはaであるか、bであるか、cであるか、dであるか、いずれかである。Xはbでもなく、cでもなく、dでもない。ゆえにXはaである。」すなわち意識が所属しているところの実体は、物質的な原子であるか、身体であるか、感覚器官であるか、心であるか、これら以外の他のものであるか、いずれかである。

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