哲学入門

絶対者の特徴として述べていたところは共通であったが

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

経験的なものを疑って〈自我〉の特別の意義を認めようとしたところに、シャンカラ哲学の独自性があるが、個人を超えた〈大我〉、〈最高我〉とはいかなるものであろうか。それが個別的な自我の単なる総和にすぎないような印象を与えるところに、シャンカラ哲学の弱点があると思われる。

インドのシャーンディリヤもギリシアのクセノパネースも、絶対者の特徴として述べていたところは共通であったにもかかわらず、両者のあいだには本質的な相違がある。シャーンディリャがギリシアの哲人と異なっているところは、かれがこの絶対者を本来の自己(アートマン)と同一視した点に存する。

むろんシャンカラ哲学の立場に立つ伝統的学者たちは〈そうではない〉と答えるであろうが、〈最高我〉なるものが個別的な自我の単なる総和にすぎないものではないということを、いかにして論証し得るのであろうか?

西洋でも無縁ではなかった

個人的な自我が同時に、経験的な個人存在を超えたものでなければならぬという思想は西洋でも無縁ではなかった。その適例はフィヒテである。フィヒテは自我を形面上学化し、絶対的自我から一切を導き出そうとした。しかしそれは、自我対立を前提とした“dasIch”の観念を前提としているのであって、恐らく本業の自己〉というようなものとは区別されるべきであすでにルドルフ・オットー(RudofOtto)が指摘したように、フィヒテの哲学は、シャンカラの哲学と多分に共通の特徴をもっているので、この問題は改めて考察されるべきであろう。

シャンカラ哲学においては個人の意識が確立していないので、近代建設のための哲学とはなり得ない、ということが、インド人のあいだでしばしば指摘されている。スピノーザの哲学においては「精神」「思惟」に関する議論は大いに述べられているが、〈自己〉の問題はついぞ出て来ないようである。へーゲルの哲学でも、唯物弁証法でも、個人の独立性の問題をどう説明しているのであろうか?一元論の哲学は〈個〉を基礎づけ得ないという、インドの主流思想に顕著なこの難点は、西洋の一元論哲学にも同様に認められると思う。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加