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哲学入門

絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでは

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絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでーは、個の問題を解決しない。わが子が亡くなったのを嘆いて、恐山の地蔵尊に詣でている農婦の悩みは、絶対精神の理論や史的唯物論を百万遍説いて聞かせても、解決され得ないであろう。自我あるいは自己を実体と認める見解を第一種とするならば、第二種の見解として、自我あるいは自己を、種々の構成要素の形成する総体にすぎない、と解する思想も成立する。

前世紀末から今世紀へかけての実存の主張の場は、その線につらなる。反省は、現在の世界においては非常に重要である。何となれば、地球の上の半数の人間が、かれらの属する国家権力によって史的唯物論を国教的な哲学(「国体の本義」!)として奉じているが、その思惟はへーゲルにつらなるからである。

西洋における代表者はヒュームである。かれは自我の実体性を否定し、自我は〈観念の束〉にすぎないと主張した。「日常の生活では、明らかに、自己や人格といった観念は固定した、定まったものではけっしてた」かれは国定的な自己の観念を排尿した。『哲学者のなかには、「自己」と呼ばれるものを、われわれはいっでも親しく意識しているのだと思っている者がいる。

自己の存在、およびその存在の持続

自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、出会うのは、いつも熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんなときでも、知覚なしに私自身をとらえることはけっしてできず、また、知覚以外のなにかに気づくことはけっしてあり得ない。

自己の存在、およびその存在の持続をわれわれは感じており、また、自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信しているのだと思っているのである。しかし、不幸なことに、これらすべての肯定的な主張は、それを裏づけるために引き合いに出されるまさしくその経験に反しており、そこで説明されるような仕方では、自己のいかなる観念もわれわれは持っていないのである。

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