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哲学入門

善良だけであってなんの能力もない者たちをニーチェは激しく告発

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善良だけであってなんの能力もない者たちをニーチェは激しく告発しました。いたるところに「善人」に対する彼の怒りが煮えたぎっている。善人たちはただ長生きをし、あわれむべき快適な生活をするために、徳をもだがっている。

学者・哲学者・芸術家などが批判精神を獲得するのは並大抵なことではない。では、なんの才能もない善良な市民大衆のうちに自己批判精神は豊かに息づいているのか?とんでもない!て、ゼロに近いと言うべきでしょう。

善意があるだけ、それに等しい弱弱さがある。彼らはたがいに丸くおさまり、あたりがいい。どうしが丸くおさまりあたりがいいようなものだ。彼ら善人たちは、譲歩する。忍従する。彼らの心情はごまをすり、彼らの論拠はいいなりになる。そして、いいなりになる者は、自分自身の本心に耳を傾けない。

他の人々と同一であると感ずることに

大衆とは、よい意味でも悪い意味でも自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしているすべての人のことである。

悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。また、現世の講誘者がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。オルテガは、こうした善良な市民から成る大衆社会を「超デモクラシー」と呼び、そのとてつもない暴力を分析しております。

まるで現代日本をつぶさに観察しそれを子細に報告しているようではありませんか。現代日本こそ超デモクラシーの究極の実現形態である、と確信しております。例えば一九九六年の冬に小樽近郊でトンネル落盤事故があり、たまたま運悪くバスでそこを通った高校生や主婦などが、若い生命を散らしました。この事故の無残さは言うまでもない。しかし、これを報道するテレビの「定型性」に私はヒドクいらだちました。

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