スポーツブログ

色々な情報を提供しています。

哲学入門

唯物論者によると

投稿日:

唯物論者によると、身体を構成している物質的なものが基本的な原理であるが、たしかわれは身体を失えば、一切の精神機能は消滅してしまうから、その意味では唯物論は絶対的義をもっているように思われる。しかしわれわれに〈自我の自覚〉というような精神的な作用の成立する所以を、唯物論はどうしても説明することができない。

仏教によると、愚味なる凡夫はこの身体をわがものであると解している。神々といえども、なおこのような見解にとらわれていて、そのために輪廻の範囲に流転し、なお苦悩を脱しえない。ところが人間は、ときに身体が傷つけられるのを承知の上で、何事かを実現しようとすることがある。

このような見解を、初期の仏教徒は『自己の身体を執する見解』(sakkayadithi)と呼び、これを捨てることを教えているのである。したがって初期の仏教徒は「非我」(自己に非ざるもの)とくに「身体」を、アートマンあるいはわがものとみなしてはならぬということを、主張しているのである。また身体の一部分を失っても、なお生きてゆくことができる。だからこの見解は、自己の問題について完全な答えを与えたことにはならない。

自我の自覚が何故に現われ出るか

インドの唯物論者たちは、身体から精神が現われ出るのは、穀物が酸酵して酒を生ずるようなものであると説明し、それでよいとしても、物質から〈自我の自覚が何故に現われ出るかということを説明し得ない。

われわれが苦痛や快感を感ずるのは肉体をもっているからであるが、苦痛や快感を感ずるのは〈意識において〉なされるのであって、ただ物質を寄せ集めただけであるならば、苦痛や快感を意識するという現象は起こらない。

〈物質〉というものが想定されるのは、それを意識する自己があるからこそである。物質を物質として意識し理解するところのものは、〈精神〉である。そこで常識的見解あるいは唯物論者の見解から発しながらも、さらにつき進んで〈自己〉をもとめなければならない。

-哲学入門

執筆者:

関連記事

no image

外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで

“ego”はもともとラテン語で、「われは」という主格(noninative)に用いられる一人称単数の代名詞であり、“self”はどの格(case)にでも用いられるので、両者はもともと異なる …

no image

インドの代表的哲学者と目されるシャンカラはいう

インドの代表的哲学者と目されるシャンカラはいう、『また「絶対者」(ブラフマン)はあらゆる人のアートマンであるから、ブラフマンの存在することが確定する。何となれば、あらゆる人は アートマン(自己)の存在 …

no image

主観と客観との対立を括弧にいれて

主観と客観との対立を括弧にいれて、概念自体とか命題自体というものがあって、それが意識のうちに現われるという思想は、現象学の先駆者(例えば、ボルッァーノ)のうちに成立していたが、インドでは仏教の説一切有 …

no image

イスラームの学者はデカルトを批判

或るイスラームの学者はデカルトを次のように批判した。デカルトによると、知識が自我の存在にのみ限られているかぎりは、知識の範囲と価値は極度に制限されたままである。なぜなら、あらゆる感官的知覚と数学的論証 …

no image

絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでは

絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでーは、個の問題を解決しない。わが子が亡くなったのを嘆いて、恐山の地蔵尊に詣でている農婦の悩みは、絶対精神の理論や史的唯物論を百万遍説いて聞かせても、解決され得ない …