スポーツブログ

色々な情報を提供しています。

哲学入門

主観と客観との対立を括弧にいれて

投稿日:

主観と客観との対立を括弧にいれて、概念自体とか命題自体というものがあって、それが意識のうちに現われるという思想は、現象学の先駆者(例えば、ボルッァーノ)のうちに成立していたが、インドでは仏教の説一切有部の哲学や、バルトリハリの哲学のうちに認められるところである。しかしニャーヤ学派は認識主観という実在する原理を想起していたから、現象学とは区別して考えられるべきである。

意識そのものは形相(akara)をもっていないが、意識の本質は意識自体とは異なる対象を現わし出すことである。その本質は対象を現わし出すことである。それは、外界の対象から切りはなされた意識の世界のうちに現出された諸対象のduplicate(複写)またはrephca(模写)ではない。意識自体とは異なる対象を現わし出すというと、読者は「現象学」を想起されるであろう。

ニヤーヤ学派の意識論もむしろ最近代のイギリスの哲学と共通の主張をもっていると言われている。ムーア(GEMoore)によると、例えば緑の感覚という意識作用は、赤の感覚という意識作用と相違していない。両者を互いに区別することはできない。ただ感覚する対象が異なっているために、この二つの意識作用を区別することができるのである。

ヴァイシェーシカ哲学においては

ヴァイシェーシカ哲学においては、アートマンは実体(dravya)の一つである。『ニヤーヤ・スートラ』のうちにはアートマンが実体(dravya)であると明言している個所はないが、アートマンの種々なる属性(guna)に言及し、またそれらがアートマンに内属(sanavaya)していることを、しばしば説いているから、やはりこのスートラ自身がアートマンを実体とみなしていたのだと解することができる。

意識している対象を離れて意識をそれ自体として把捉しようとすると、意識はまったく空虚なものとなる。しかしムーアが意識は対象とはならぬということを強調するのに、ニヤーヤ学派は意識をアートマンの性質(guna)と見なして、それを対象的なものとして把捉する。意識を対象として、意識を意識するということを、ニャーヤ学派ではanuvyavasayaという。これはイギリスの哲学者レアド(JohnLaird)によって問題とされたことであるという。

-哲学入門

執筆者:

関連記事

no image

絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでは

絶対精神の理論から史的唯物論に至るまでーは、個の問題を解決しない。わが子が亡くなったのを嘆いて、恐山の地蔵尊に詣でている農婦の悩みは、絶対精神の理論や史的唯物論を百万遍説いて聞かせても、解決され得ない …

no image

「我」と「吾」は「自身」「自己」の意味

「我」と「吾」とがつねに厳密に区別されているわけではないけれども、傾向としては、そのように言うことができるであろう。ゆえに往昔のシチの翻訳僧もアートマンの直接の定義は、今日の日本語でいう「自身」「自己 …

no image

近代思想の発端は西洋ではわれ考う(われ意識す)ゆえにわれ有り」

近代思想の発端は西洋ではデカルトが「われ考う(われ意識す)。ゆえにわれ有り」といったこの自覚にあるとしばしば主張されている。近代思想における人間そのものを尊重する態度が、やがて哲学的には自我の問題を自 …

no image

意識している意識を否認することはできない

デカルトは、われわれは何ものをも否認することはできるが、意識している意識を否認することはできない。それは精神の存在を証するものである。ところで精神の存在を証する〈意識していること〉という事実は、精神に …

no image

自我の自覚から導き出される結論

迷いの無い最高我というものが実際に存在するであろうか?それも抽象的思惟によって構成されただけのものではなかろうか?自我の自覚から導き出される結論は、われわれが〈自我〉とか〈自己〉として自覚するものが否 …