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哲学入門

シャンカラやウパヴァルシャの議論は

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デカルトにおいては自我は神とは異なった存在であるが、シャンカラにおいては自己はそのまま絶対者ブラフマンなのであって、両者が別異であると考えるのは迷妄にすぎない。自我(アートマン)と絶対者が同一であるということを、シャンカラは当然のこととして受けとっていたが、西洋人は決してそのようには考えなかった。

ウパヴァルシャやシャンカラの議論は近世インドにおいて若干の伝統的学者(pandtpundit)たちによってそのまま承認されているから、近世においても「自我の自覚」から導き出される結論は、ヨーロッパとインドとではかなり異なっていたらしい。

西洋人によると、人間の自我と神とのあいだには絶対の断絶があるのである。ところがヴェーダーンタや大乗仏教によると、自我(自己、アートマン)は絶対者と同一であるか、あるいは連続しているのである。ここにわれわれは東と西とのあいだにおける大きな相違を認めざるを得ないのである。この見解の相違は、日常生活における挙動の相違を基礎づけている。

現実に生きている人間は

現実に生きている人間は、汚れにまつわられている者であるかもしれない。しかしその奥に潜んでいる絶対のもの(アートマンまたは仏性)は絶対的意義あるものであるから、それで、いかなる相手をも合掌して拝むのだと言うのである。西洋人が合掌するのは、神に対しでだけである。ところがインド人や南アジアの人々は互いに合掌する。それは各個人のうちに存する〈本来の自己〉(アートマン)が絶対のものであるからである。

このような論証の相違を前にして、われわれはさらに考えねばならない。どちらが正しいのか?デカルトは、より完全な存在者(=神)の観念が自分のうちにあって、それに比較して自分の欠点が認められるのであるから、神が存在するというが、この議論は神の存在を証明する一種の存在論的証明であって、この点ではデカルトは中世以来の存在論的証明の域を出ていない。

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