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サウス・サルサモーラアパレル工場はスウェットショップではなかった

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サウス・サルサモーラ・ストリート・アパレル工場は、どう見てもスウェットショップではなかった。労働者は健康保険にも入れたし、時給一二ドル稼ぐミシン係もいた。労働時間にしても、たまに長くなることはあったけれど、過酷というほどではなかった。

一九七三年、二六歳のペトラ・マタは、夫とテキサスで新生活を始めるべく国境を越えた。小学校しか出ておらず、英語も片言しか話せなかったが、友人たちは、そんな彼女でもアメリカならまず間違いなくいい暮らしができると言った。母国では到底望めないことである。縫製作業の経験など全くない彼女だったが、一週間の訓練で上手にミシンが使えるようになり、数年間は紳士用スポーツ・ジャケットばかり縫い続けた。

一九八一年には工場がリーバイ・ストラウスの手に渡ったため、その後はドッカースのパンツやジャケットを製造することになった。マタにはほとんど不満はなかった。何しろ、工場勤務の一四年間で、お針子からトレーナー、監督と昇進していき、ついには時給九・七三ドルというなかなかの稼ぎ手になったほどである。

中国やインドの実業家

マタは、低賃金のレストランやトルティージャ工場で三年間がむしゃらに働いた後、ついに希望の持てる仕事をものにした。テキサス州サン・アントニオにあるサウス・サルサモーラ・ストリート・アパレル工場のミシン係になった。

一九八九年、マタと監督仲間たちは、たびたび外国人ー中国やインドの実業家ーが来ていることに気づき始めた。
工場内を歩き回ってスナップ写真を撮ったり、ビデオを撮ったりしている。「一体何事ですか?」。何度か経営陣に尋ねてみたが、返事は決まってこうだった。「ああ、何でもない、何でもないよ何も心配しなくていいから」。マタ自身は、一日およそ一〇時間の割で週に五、六日働いていた。

事実、表向き、工場は順調そのもので、その年にはドッカース・ブランドのパンッを一日平均一万六〇〇〇本、ジャケットを五〇〇着生産して、アメリカ最大級のリーバイス工場に成長していた。

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