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哲学入門

われわれは近代的な自我観を確立せねばならない

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われわれは近代的(つまり西洋的)な自我観を確立せねばならぬ。ーこれがわが国の知識人一般のあいだの了解である。そこで近代の自我観に〈右へならえ〉をせよ、ということが合ことばになって、今日にまで至っている。一般ジャーチリズムの論調も、だいたいそのようなところに尽きているようである。

近代西洋において大いに問題にされたのは、自我の自賞、自我の意識の問題である。では〈自我〉として把捉するのと、〈自己〉として把捉するのと、どのような相違があるのであろうか。〈自我の自覚〉は近代初期にヨーロッパで始まり、そののち西洋の文明はその線に沿って発展した。ところがアジアあるいはその他の諸大陸の民族のあいだでは、まだ〈自我の自覚〉が未発達である。

〈自我〉の観念が、それの源泉として、典型となっている西洋の思想家のあいだでも明瞭に把捉されているであろうか?この問題は、今までしばしば問題にされながら、しかし問題の根底をえぐるほどに、充分に考術語としての用語が確立していないからである。

フランス語で問題にするときには

フランス語で問題にするときには、自我は“no”として把捉される。言語上の用法としては、「われを一(対格、accusative)として、「われ」を対象化している。この問題を英語で論ずるときには、一般化抽象化したかたちで“sef”という語を用いる。

これらの諸語は実質的内容的には同じ概念を意味するのであって、ただ諸言語の構造的相違の故に、用法上では異なった諸語が〈自我〉を意味してっかわれるのではないか、という可能性が考えられるが、決してそうではない。

普通、哲学においては、〈自我〉の問題として取り上げられている。しかしそれは明既にして判明なる概念であるとは言いえない。西洋でもとになる原語として、ラテン語でego,ドイツ語で“dasIch”である。それは「われは」(主格、noninative)ということであり、それは人格的には「次は」と対立し、また事物の「それは」と対立した把捉のしかたである。

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