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哲学入門

イスラームの学者はデカルトを批判

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或るイスラームの学者はデカルトを次のように批判した。デカルトによると、知識が自我の存在にのみ限られているかぎりは、知識の範囲と価値は極度に制限されたままである。なぜなら、あらゆる感官的知覚と数学的論証にはっねに疑惑がっきまとったままであるから。実に神の存在の証明によってのみ物理的実在と抽象的原理の知識が確保されるのである。神の真理性と善意との保証がなければデカルトの建てた認識論的大建造物は依然としいて空虚で動揺し易いものであろう。

神を認めたことによって、その所論はさらにとめどなく進展する。一層完全なる実有の観念が存しなかったならば、いかにして私は、私を疑ふこと、私が欲求すること、言ひ換へると、或るものが私に欠けてみて、私はまったく完全ではないこと、を理解したであらえ。無限なる実体のうちには有限なる実体のうちにおけるよりも多くの実在性があること。

また従って無限なるものの知覚は有限なるものの知覚よりも、言ひ換へると、神の知覚は私自身の知覚よりも、いはば一層先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解するからである。というのは、もし私のうちに、それとの比較によって私が私の欠陥を認めるところの何等か。ここには論理の飛躍がある。

インドの哲人の所論は

インドの哲人の所論は、議論のすすめ方がほぼデカルトと軌を一にしているにもかかわらず、そこに大きな相違を認めることができる。デカルトが右の立論から神の存在を認めたのに対して、インドの哲人たちはそこからブラフマンの存在を論証している。

自我または心の存在より以外の他のすべてのものの認識は神の認識に依存している。イスラームの学者はこのように批判したにもかかわらず、神の認識をその所論の前提として承認しているという点において、デカルトの設けた路線の上に依然としてとどまっている、と言うことができるであろう。神の存在を前提として承認するという社会的要請が、デカルトの場合にも、イスラームの哲学者の場合にも、哲学的思索を支配しているからである。両者のあいだに歴史的連絡があるかどうか、ということは、この場合問題とならない。

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