スポーツブログ

色々な情報を提供しています。

哲学入門

意識している意識を否認することはできない

投稿日:

デカルトは、われわれは何ものをも否認することはできるが、意識している意識を否認することはできない。それは精神の存在を証するものである。ところで精神の存在を証する〈意識していること〉という事実は、精神に属するものであるのみならず、直接経験であり、それ自身によってそれ自身を確立しているものである。この議論はインドではクマーリラ学派が特に主張するものである。

意識が内属しているところの実体は物質的な原子でもないし、身体でもないし、感覚器官でもないし、心でもない。だから、意識は、以上に挙げたそれらのものと異なるもの、すなわち、純粋の精神(アートマン)に内属しているのである、という推論を立てる。ここではインド論理学における残余法(sesavat)と称する論証法が用いられているのである。

ニャーヤ学派におけるように推論によって達せられたものではない。しかしニャーヤ学派においては意識はアートマンにとっては非本質的な偶有的なものであるにすぎない。すなわち意識は、輪廻の状態においてのみ、すなわち経験的生活においてのみアートマンに属しているのであって、解脱とともに終止する。

ニャーヤ学派とデカルトとには相違が存する

ニャーヤ学派とデカルトとには相違が存する。デカルトによると、意識はそれ自身を定立するし、また意識のはたらきにおいて意識している自我を定立する。それでは意識している実体としての心は物質世界からまったく切り離されているにもかかわらず、心が物質世界を意識するということはいかにして可能であるか、ということが、かれの問題となった。

意識は永久に精神に内属しているものではない。われわれが眠っているときにも、われわれは意識を失っているではないか。ところがデカルトにとっては、意識は、自我の本質なのであり、意識のない自我というものはとうてい考えられない荒唐無稽のものである。ここに、自我と意識との関係についての、ヨーロッパ的通念とインド的通念とのあいだの大きな差異を認めることができる。

-哲学入門

執筆者:

関連記事

no image

近代思想の発端は西洋ではわれ考う(われ意識す)ゆえにわれ有り」

近代思想の発端は西洋ではデカルトが「われ考う(われ意識す)。ゆえにわれ有り」といったこの自覚にあるとしばしば主張されている。近代思想における人間そのものを尊重する態度が、やがて哲学的には自我の問題を自 …

no image

仏教では古来「我」とは「常・一・主宰」の義であると解する

仏教では古来「我」とは、「常・一・主宰」の義であると解する。西洋における一例としては、ロック(一六三二ー一七四年)は世俗的生活の領域においては自我を承認している。『自分「ないし自我」とは、快苦を感知し …

no image

自己という観念

〈自己〉という観念は、何人にとっても自明のものであるが、しかし説明は難しい。全く不可解なものである。もしそれを説明しようとすると、他人と共通に理解されるところの概念を以って述語せねばならぬが、概念とい …

no image

ゴータマ・ブッダはべチレスにとどまっていたのちに

ゴータマ・ブッダはべチレスにとどまっていたのち、かつてさとりを開いた場所であるウルヴェーラーに向って旅に出た。あるとき、かれは道を離れて一つの密林のところに到り、その中に入って一樹のもとに巫した。 そ …

no image

主観と客観との対立を括弧にいれて

主観と客観との対立を括弧にいれて、概念自体とか命題自体というものがあって、それが意識のうちに現われるという思想は、現象学の先駆者(例えば、ボルッァーノ)のうちに成立していたが、インドでは仏教の説一切有 …