哲学入門

意識している意識を否認することはできない

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デカルトは、われわれは何ものをも否認することはできるが、意識している意識を否認することはできない。それは精神の存在を証するものである。ところで精神の存在を証する〈意識していること〉という事実は、精神に属するものであるのみならず、直接経験であり、それ自身によってそれ自身を確立しているものである。この議論はインドではクマーリラ学派が特に主張するものである。

意識が内属しているところの実体は物質的な原子でもないし、身体でもないし、感覚器官でもないし、心でもない。だから、意識は、以上に挙げたそれらのものと異なるもの、すなわち、純粋の精神(アートマン)に内属しているのである、という推論を立てる。ここではインド論理学における残余法(sesavat)と称する論証法が用いられているのである。

ニャーヤ学派におけるように推論によって達せられたものではない。しかしニャーヤ学派においては意識はアートマンにとっては非本質的な偶有的なものであるにすぎない。すなわち意識は、輪廻の状態においてのみ、すなわち経験的生活においてのみアートマンに属しているのであって、解脱とともに終止する。

ニャーヤ学派とデカルトとには相違が存する

ニャーヤ学派とデカルトとには相違が存する。デカルトによると、意識はそれ自身を定立するし、また意識のはたらきにおいて意識している自我を定立する。それでは意識している実体としての心は物質世界からまったく切り離されているにもかかわらず、心が物質世界を意識するということはいかにして可能であるか、ということが、かれの問題となった。

意識は永久に精神に内属しているものではない。われわれが眠っているときにも、われわれは意識を失っているではないか。ところがデカルトにとっては、意識は、自我の本質なのであり、意識のない自我というものはとうてい考えられない荒唐無稽のものである。ここに、自我と意識との関係についての、ヨーロッパ的通念とインド的通念とのあいだの大きな差異を認めることができる。

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