哲学入門

へレニズム世界において無視することの許されぬもの

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『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨で(enguareuo)自分の十字架を負うで、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとえ人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。

へレニズム世界において無視することの許されぬものであった。学者の言うところによると、『聖書』のうちの原初的な資料によると、初めのうちは「自分を捨てる」ということが説かれているだけであったが、やがて「十字架を背負う」ということが課せられるようになった。

人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができよう。学者が指摘するように、「十字架を背負うて」という表現は、キリストの死後に、信徒がキリストのロにもち込んだことばであり、生きているときのキリストがロにしたものではない。

自分を捨てるだけでは不充分

この段階になると、「自分を捨てる」だけでは不充分で、別の条件が余分に付加されている。そこで一部の人々と他の一般の人々とが遮断されている。「自分を捨てる」ことなら、誰に対してでも勧めて然るべきことである。しかし「十字架を背負う」ということになると、反発を感ずる人が当然出て来るであろう。

インドではアートマン(「自分自身」を意味する再帰代名詞的に用いられる)の哲学が発展したのに、へレニズム世界では「自分自身」(seauton)を取り出した哲学が発展しなかったというところに、やはり相違点を見出さざるを得ない。強行しようとすると、一種の集団的不ズムが発生したのであった。しかし、恐らく最初に説かれたであろうところの〈自分を捨てる〉ということは、まさに仏教の無我説に対応するものである。

西代西洋において、『次自身を見つめよ』というのは、イエズス会の創始者であったイグナティウス・ロヨラ(IgnatusLoyola)の標語であった。ヤコブ・ベーメもまた自己を知ることを主張し。

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