スポーツブログ

色々な情報を提供しています。

哲学入門

へレニズム世界において無視することの許されぬもの

投稿日:

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨で(enguareuo)自分の十字架を負うで、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとえ人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。

へレニズム世界において無視することの許されぬものであった。学者の言うところによると、『聖書』のうちの原初的な資料によると、初めのうちは「自分を捨てる」ということが説かれているだけであったが、やがて「十字架を背負う」ということが課せられるようになった。

人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができよう。学者が指摘するように、「十字架を背負うて」という表現は、キリストの死後に、信徒がキリストのロにもち込んだことばであり、生きているときのキリストがロにしたものではない。

自分を捨てるだけでは不充分

この段階になると、「自分を捨てる」だけでは不充分で、別の条件が余分に付加されている。そこで一部の人々と他の一般の人々とが遮断されている。「自分を捨てる」ことなら、誰に対してでも勧めて然るべきことである。しかし「十字架を背負う」ということになると、反発を感ずる人が当然出て来るであろう。

インドではアートマン(「自分自身」を意味する再帰代名詞的に用いられる)の哲学が発展したのに、へレニズム世界では「自分自身」(seauton)を取り出した哲学が発展しなかったというところに、やはり相違点を見出さざるを得ない。強行しようとすると、一種の集団的不ズムが発生したのであった。しかし、恐らく最初に説かれたであろうところの〈自分を捨てる〉ということは、まさに仏教の無我説に対応するものである。

西代西洋において、『次自身を見つめよ』というのは、イエズス会の創始者であったイグナティウス・ロヨラ(IgnatusLoyola)の標語であった。ヤコブ・ベーメもまた自己を知ることを主張し。

-哲学入門

執筆者:

関連記事

no image

イスラームの学者はデカルトを批判

或るイスラームの学者はデカルトを次のように批判した。デカルトによると、知識が自我の存在にのみ限られているかぎりは、知識の範囲と価値は極度に制限されたままである。なぜなら、あらゆる感官的知覚と数学的論証 …

no image

ゴータマ・ブッダはべチレスにとどまっていたのちに

ゴータマ・ブッダはべチレスにとどまっていたのち、かつてさとりを開いた場所であるウルヴェーラーに向って旅に出た。あるとき、かれは道を離れて一つの密林のところに到り、その中に入って一樹のもとに巫した。 そ …

no image

主観と客観との対立を括弧にいれて

主観と客観との対立を括弧にいれて、概念自体とか命題自体というものがあって、それが意識のうちに現われるという思想は、現象学の先駆者(例えば、ボルッァーノ)のうちに成立していたが、インドでは仏教の説一切有 …

no image

自己の探求は古代のギリシア哲学においても重要なテーマ

自己の探求は、古代のギリシア哲学においても重要なテーマであった。へーラクレイトスは「わたしはわたし自身を探求し」と言った。テネースは、哲学の目的は「自分自身とまじわる能力」だと考えていた。 〈自己〉と …

no image

外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで

“ego”はもともとラテン語で、「われは」という主格(noninative)に用いられる一人称単数の代名詞であり、“self”はどの格(case)にでも用いられるので、両者はもともと異なる …