哲学入門

外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで

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“ego”はもともとラテン語で、「われは」という主格(noninative)に用いられる一人称単数の代名詞であり、“self”はどの格(case)にでも用いられるので、両者はもともと異なるものであるから、この用法上の相違が現われるのである、といって一応難点の説明がつくかもしれない。しかし“ego”という語は、英語では対象を示すものとして目的格に用いられることがある。

英語ではゲルマン系の語である“self。とラテン語に由来する。ego。とがともに使われるが、“selfreflecton”とはいうが、決して一egoreflecton”とは言わない。また“sefconscous”という表現はあるが、egoconscous”という表現は少しく異なった意味合いをもつ。だから、selfとegoとはかなり意味を異にするのである。

例えば、教養のあるアメリカ人の紳士が自分の経歴、思い出に関する品物を他人に見せるときに、「わたしの自我をあなたにお見せする失礼をおゆるしください『easeexcuseneforshowingnyegotoyou”という。この場合には“ego”は明らかに対象化されたものとして目的格(obecuvecase)で用いられている。このように玲味してみると、西洋では哲学者たちがいだいている自我の観念は必ずしも一様ではないのである。

外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで

外界や他人との関係を考察の範囲に入れないで、認識し意欲し行動する主体だけを、考察反省の対象とすることも可能である。この場合に、客観化されたために、考察反省の対象となる主体を〈自己〉と名づける。

われわれはさらに厳密な理論的検討を必要とする。われわれは認識し、意欲し、行動している。それを各個人に限っていうならば、〈われは認識し、意識し、行動している〉ということを、自分で自覚している。その事実を考察するときに、認識し意欲し行動する主体が、その主体それ自身を外界や他人と区別することがなされる。その場合に、その主体は外界や他人と対立するものと考えられる。これを〈自我〉と名づける。

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