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哲学入門

「我」と「吾」は「自身」「自己」の意味

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「我」と「吾」とがつねに厳密に区別されているわけではないけれども、傾向としては、そのように言うことができるであろう。ゆえに往昔のシチの翻訳僧もアートマンの直接の定義は、今日の日本語でいう「自身」「自己」の意味に解していたことが知られる。

「我」という字は古くは、シナ語において一人称の代名詞の対格を表示する語であり、英語のne、ドイツ語のnich、フランス語のnoiに相当する。これに対して「われは」と主格でいうときには「吾」という字を多く用いる。複数形で「われわれは」というときには「吾曹」「吾等」「吾輩」というような表現が用いられる。

今日の日本語では、「我」というと、偏狭な自我、恋意的な自己、というニュアンスを伴っている。例えば「我を張る」、「我が強い」など。この語は漢和大辞典の類には出ていないから、禅に特有の表現なのであろう。

漢訳仏典においては

漢訳仏典においては「アートマン」はつねに「我」と訳されている。おそらく精神作用の主体に何らかの客体的性格を与えることを避けるために、客観的世界に妥当するいかなる概念をもってしても、その主体を規定し述語することができぬと考えて、自己を表示するためには再帰代名詞としてのアートマンという語を用いるよりほかにしかたがなかったのであろう。

このようなニュアンスは仏教の無我の観念ならびにその字義から対比的に導き出されたものであろうが、「アートマン」という語は、本来はこのような意味をもっていなかった。ゆえにこのような誤解を避けるために、今日ではアートマンを「我」ではなくて「自己」「自身」と訳したほうがよい場合がある。

古代西洋の哲学においては、表面的には「自我」「自己」を探求するという問題設定はなされなかったように思われる。もしも西洋哲学におけるように、再帰代名詞以外の何らかの名詞を用いてそれを呼ぶならば、程度の差こそあれ、それを何らかの意味において客体視して把捉したことになる。

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