哲学入門

仏教では古来「我」とは「常・一・主宰」の義であると解する

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

仏教では古来「我」とは、「常・一・主宰」の義であると解する。西洋における一例としては、ロック(一六三二ー一七四年)は世俗的生活の領域においては自我を承認している。『自分「ないし自我」とは、快苦を感知し、いいかえれば意識し、幸福または不幸であることができ、ひいては、その意識の及ぶかぎり自分自身を気にかける、意識し思考する(どんな実体から作られようと、精神的であれ物質的であれ、単純であれ複合的であれ、どうでもよい)である。

自我は単一の個体としての意識をもっている。そうして自我は時間の経過を通じて同一のものであると考えられている。さらに自我はみずからに属する種々の精神的生理的な作用の主体であると考えられている。これはほぼどの哲学体系においても認められるところであろうが、これはまた仏教哲学における伝統的な「我」の定義と一致する。

現在の思考する事物の意識が結びつくことのできるもの、それが同じ人物を作り、意識と一つの自分であって、意識以外のどんな事物とも一つの自分でなく、ひいては、この意識のとどくかぎり、その思考する、事物の全行動をその事物自身の行動として自身に帰属させ、わがものとするのであって、意識のとどかないところには及ばないのだからこそ人同一性にもとづいて賞罰も可能となるのである。

西洋の唯物論者もインドの唯物論者も

この点は西洋の唯物論者も、インドの唯物論者も一致している。また漢訳仏典では〈アートマン〉を「身」と訳す場合がある。日常生活において普通誤解されているのは、われわれの身体がすなわち自己であるという思想である。

この議論は、インドにおいて仏教外の諸学派の立てる〈自我〉観と共通である。仏教外の諸哲学派が仏教の無我説を攻撃する場合に、しばしば述べられるものである。自我は日常的には身体を含めて考えられるが、また身体を排除して心理的自我を考える場合もある。また身体が主要なものであって、精神作用はそれから派生したものにすぎないという見解も成立し得るが、この見解は唯物論者の主張したところである。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加